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昨年、つい昨年のことだ。
芦原妃名子さんという作家を知ってから、いつか会いたい、憧れの作家さんの一人だった。
砂時計、Piece、と並行して読み進めながら、それぞれの作品に魅せられ、芦原妃名子さんとはどんな方だろう、と想像を膨らませたこともあった。
きっと、想像できないほど敏感で、繊細な方なのだろうな、というのは予想していた。
でも、ここまで心を緻密に繊細に描きおこすことができるなら、心を客観的に見つめ、弱さを受け入れる底知れぬ強さもお持ちなのだろう、とも思えた。
心の動きや中身をここまで細かく丁寧に、描いて、読者を引き込み、読ませる作家さんは、はっきりいって、芦原さん以外にいないだろうと思わせてくれた。
私にとっては、そんな、偉大な存在になっていた。
突然の訃報を知ったときには、言葉もでなかった。
その、最期の地となった地名を見たときには、絶句した。
そのとき私のいた場所から、それほど遠くない、おそらく、車で1時間も離れていない場所だった。
その場所は、子どものころの遠足スポットとしても有名で、もちろん、うろ覚えながら、私も立ち寄ったことがあった。
名所とされているが、子ども心ながらに、つまらない場所だなぁという印象しかなく(ごめんなさい)、華厳の滝や竜頭の滝のほうが、よほど見応えがあって楽しかった。
ほかにたくさんの美しい景色だって知っているはずの芦原さんが、なぜそこで・・・と思わずにはいられなかった。
わたしは自分で自らの命を終わらせるという行為にはもちろん賛成できないし受け入れられない気持ちがあるが、もうそのことしか考えられなくなり、結果的にそうなってしまったのであれば、その日までの命を「定命」(寿命)と考える、という話をある人から聞いたことがある。
そこへ向かい、実行してしまうまでの間に、それを修正するはずの出来事や出会いが、なにかしらあったはず。
なんでもいいのだ。たまに現れる光景や人、風景。
ふいに、出会うなにかがきっかけで、それまでとは考えが変わる、という経験を誰しもしたことがあるはずだ。
だから、小説やドラマのなかでは、ときには、実在の人のエピソードにも、そういったことはふんだんにある。深く思いつめて歩いていく先に、その歩いていく過程で、思いもかけない救いの手に出会うことだって、きっとあるはずなのだ。
ところが、いつもいつも、そういうわけにもいかないのが実際の人生だったりする。
漫画やドラマのようにはいかない。
助けにきてくれる人も、本当の意味で話を理解してくれる人も現れはしないのである。
と書いてしまうと、救いようがないが、それが目の前にみえている世界だ。
ひとりでひたすら歩きつづけることを愛する旅人も、冬に、どんよりとした灰色の空の下、鉛色の海岸沿いを小雨に打たれてひたすら歩き続けていると、ときおり、途方に暮れてしまうことがあるのではないか。
どうしようもなくなったとき、そこにいるのは、自分一人だけなのだ。
頼れるのは、自分一人だけなのだ。
ある作家が、海外でひとり、宿もなく、言葉もわからず途方に暮れながら、「頼むよ自分」と、自分を頼りにどうにか生き延びた話を読んだことがある。
なにを書いているかわからなくなってきたがとにかく・・・
昨今、だれかが亡くなったというニュースのなかではとびぬけて心を揺さぶられた。
しかし、このいつまで続くのかわからない闇を進まねばならない。
まだ思う。
きっとなんらかの作品をつくっている人なら、その多くの人が、到達してみたいところまで到達しながら、なぜゆえに・・・という思いが拭えない。
なにかひとこと言いたいような気にもなる、という方も少なくないのではと思う。
だからこそ、こんなにも反響が多く、さまざまな分野の方々がこの件について発信しているのだろうと思う。
やりたかったことをやりなさい、という本がかつてあった。
すこしでも気になったことがあるなら、やってみようかなと思って、まだやっていないことがあるなら、
できることは、少しずつでもやっていこうと思う。この世界を去る日にも、悔いのないように。